
アトリエで作品を執筆中の望月三起也さん
この写真は神奈川県内のアトリエで作品を執筆中の漫画家の望月三起也さんです。望月さんは2016年4月にお亡くなりになられましたが、同年第45回日本漫画家協会賞特別賞を受賞されました。もちろんゴールデン横丁の読者の皆さんでしたら『ワイルド7』は誰でもご存知でしょうけど、熱狂的なサッカーファンとしても知られていました。
サッカーファンを公言してくれた漫画家
望月三起也さんは漫画家さんですが、サッカーファンを公言する漫画家さんといったらおそらく「初代」といってもいいくらいの方でした。劇画タッチで非常に力強く、それでいてメカの描写などは緻密で素晴らしい絵を描きながら、専門誌でサッカー関連のコラムも執筆されていました。ぼくが知り合ったのは月刊サッカーマガジンで、ずっと連載をもっておられました。確か「エコ贔屓」ってタイトルで、それはずいぶん長く連載が続いていました。
でも本業は漫画家さんだし、当時はとても売れっ子でしたから、原稿が遅かった! 毎月最後の入稿は望月さんか、某さんかっていうくらい遅かった(笑)。三起也さんの場合は必ず一枚は絵を描いてくださったので、みんなで辛抱しながらもそれを楽しみにしながら、「ああ、今月もギリギリで間に合ったなー」っていうのはありました。だいたいいつも原稿をもらっても会社に戻ってくる時間がもうなくて、あの頃はまだ活版印刷の時代だったから、すぐに製版屋さんに持っていって、版を作ってもらって、文章をセットにして、印刷屋さんに持っていきました。でも三起也さんはとてもいい人でね、「いやー遅くなっちゃったー」って、いつもニコニコしながらやってくれました。

有名選手との写真をみせる望月三起也さん
「ザ・ミイラ」を創設した発起人
三起也さんは元々サッカー好きでしたが、でも自分ではぜんぜんプレーしてなかったんだけど、結構歳がいってから自分でもサッカーをプレーし始めました。熱狂的なサッカーファンで結成されたクラブチーム「ザ・ミイラ」を始めたのもずいぶん歳がいってからなんです。何年に結成したかぼくもはっきりとは覚えていないんだけど、でもJリーグが始まった頃に、「ザ・ミイラ」にかこつけて、ぼくらも「字絵(じえ)リーグ」っていうのを始めたんです。三起也さんもお弟子さんとか漫画家の仲間たちをあつめてチームで参加してくれたりとか、落語家の春風亭正朝さんも噺家仲間をあつめてくれて、コント山口君と竹田君の山口君もタレント仲間のチームを作ってくれた。ぼくらはカメラマンチームを結成して参加しましたが、それはそれは大変盛り上がってました。
三起也さんは大変な売れっ子漫画家さんでしたから、「三起也さん! 三起也さん!!」って寄ってくるいろんな人をサッカーの世界に引き込んでくれたりもしたんです。なにをやるにも一生懸命でしたよね。どんなに仕事で徹夜していても「サッカーがある」っていうと喜んでやってくるし、それは本当にすごいなって思いながらつき合っていました。サッカーをやっててもものすごく負けず嫌いだったから、みんなで段取り組んで自分で点入れて「ワー!」って喜んだりすると、もう子供みたいに無邪気なところもあってね。本当にいい人だった。

自らのクラブでプレーする望月三起也さん
三起也さんを中心に結成された「ザ・ミイラ」がイベントとして試合をすると結構錚々たる人たちがやってきました。確かジャッキー・チェンさんが率いる香港のチームを国立競技場でのイベントに呼んだりもしたし、普段はリーグ戦の前座試合をやってくれたりとか、今では考えられないですが、サッカーが集客に苦しんでいた時代に日本のサッカー界にすごく貢献してくれたんです。
草創期の女子リーグもサポート
香港といえば、なにかのアジア地区予選の時にみんなで香港に応援に駆け付けて、「ついでだから香港の関係者ともサッカーしようぜ!」って話になって、「日本隊」とかってネームの入ったユニフォームも作って地元のチームと草サッカーの試合をしていたら、試合が終わる前に日本のチームがやってきてしまって、まさか自分たちが応援するチームがそこで練習するとは誰も思わなかったから、「まずいよ、まずいよ」って話になって「もうやめようよー」っていってたら、「何時まではぼくらが借りてるからぜんぜん構わないよ」って話になっちゃった。日本から遠征にきた選手たちが見守る中で、へたっぴな業界人たちがサッカーやってるって変なことになってしまった、というような笑い話もありました。
意外な感じもしますが、特に三起也さんが一生懸命だったのは、当時の女子リーグ戦だったかな。今の「なでしこリーグ」の前身といえば前身とも言えますが、昔「チキンリーグ」というのを作って女子サッカーリーグ戦をやっていた時代には、リーグ戦のプログラムの表紙とか、試合告知用のポスターなんかを手弁当で制作してくれたり、リーグ戦のイベントを手伝ってくれたりもしました。

望月三起也さんのアトリエ
客寄せパンダになって日本サッカーを支えてくれた
そういうJリーグやなでしこリーグがまだ産声を上げる以前の、日本代表がワールドカップに出場するなんて夢のまた夢で、サッカーがまだまだマイナースポーツだった時代、文化人でサッカー好きだったのは、三起也さんと明石家さんまさんくらいだった。さんまさんもザ・ミイラでプレーしたことがあったと思いますし、発起人のおひとりだったかもしれない。ビートたけしさんもいたんじゃなかったかなあ……。メディアに影響力のあった彼らは自ら進んで客寄せパンダになってくれて、前座試合にも出場してサッカーを盛り上げてくれました。今でいう試合前イベント、マッチデーイベントのハシリですかね。だからそういう有名人たちが他のタレントさんやモデルさんとか、知名度のある人たちにまた声をかけて呼んだりして、まさに「木乃伊取りが木乃伊になる」ふうにしてくれたんです。一世を風靡した方たちでしたから、そういうイベントを盛り上げるのもとても上手でした。まあこの時代の人たちは『ワイルド7』を知らない人はいませんでしたから。もう本当に大ヒットしましたからね。
人がひとりでできることって本当に限られていますけど、三起也さんはエネルギッシュにいろんなところに顔を出してはサッカーをベースにした交流をしてくれて、日本のサッカー界をおおいに盛り上げてくれた功労者ですよね。いち漫画家さんにしては、その求心力はすごいし、ハンパない。三起也さんは本当に根っからのサッカー好きでしたし、そういう意味でもみんなに忘れないでいて欲しい。誰にいわれたからでもなく、率先して盛り上げてくれたんです。選手たちや現役を退いたOBたちにも垣根なく「おいでよ! 一緒にサッカーやろうよ!」って声かけてくれて、それでみんなに慕われてました。

ザ・ミイラのチームメンバーと
そういう交流を続けている中で選手たちにもすごく親しい人たちがいて、その中でも杉山隆一さんとはとても仲良しだった。三菱重工の時代から公私ともに一緒に交流していて、それは杉山さんがヤマハ発動機にいってからも変わらずに、合宿に激励にいったりとかしていました。そういう縁もあってか、熱烈な三菱重工時代からの浦和レッズサポーターでした。年に一度、三菱養和グラウンドで大手町御三家のサッカー大会をやってたんですが、その時は三菱チームに呼ばれて参加もして、古河電工や日立のOBたちとの試合にも出場していました。
サッカーなんて全くおカネにならなかった時代の偉大な功労者
そういう交流や活動も決して無理やりな感じじゃなくて、本当に自然にサッカーに溶け込んでいた。今はなんかやろうってなると、とにかくおカネや権利なんかが絡んで面倒なことになるけど……。この当時はみんな手弁当で参加する方が多かったし、それがあたり前だった。自分のことは自分でやって、まあせいぜいが協賛会社のTシャツをもらって「またやろうぜ」って帰るくらいでした。まあなんといっても、この時代はサッカーなんて全くおカネにならない代表的なスポーツでしたからね。そんな時代の中で、サッカー場に人を集めてイベントを盛り上げてくれるのは、三起也さんくらいしかいなかった。

ザ・ミイラでプレーする望月三起也さん
あらためて思い起こすと、やっぱり本当にえらかった。原稿が間に合わなくてもサッカーには必ずやってきた。なにが一番ってサッカーが一番だった。草サッカーでしたが「年に二ケタはゴールしたい」とか真剣に話していましたし、やっぱり負けず嫌いで点をとりたかったんでしょう。サッカーやっていると普段と性格が変わりましたからね。普段は本当に好々爺なんだけど……。最近こういう「ザ・ミイラ」みたいなチームがないし、もしかしたらあるのかもしれませんが、あまり目立たなくてさみしいですね。サッカーにこれだけ情熱を注いでくれた文化人はいなかったし、サッカーの楽しさを違ったカタチでサッカーを知らない人たちに提供してくれた。サッカーをしたり、見たり、贔屓のクラブを応援したりして、サッカーの楽しさを共有する機会をくれたのはすばらしいことだと思います。できたらここで日本のサッカー界に多大なる貢献をしてくださった望月三起也大先生を称えられればなと思います。

ゴールデン横丁の仲間たち | 今井 恭司(いまい きょうじ)
https://goldenyokocho.jp/articles/671世界中を飛び回り最前線で日本サッカーを見つめてきたイマイさん。蔵出し写真とトークをゴル横だけにお届けします。2017年8月1日、日本サッカー協会により「第14回日本サッカー殿堂」に掲額されることが決定しました(特別選考)。