楚輪博 ‐ ヤンマー黄金時代を継承したゲームメーカー

楚輪博 ‐ ヤンマー黄金時代を継承したゲームメーカー

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「楚輪博 ‐ ヤンマー黄金時代を継承したゲームメーカー者」をお届けします。


1983年6月26日JSLカップ決勝ヤンマーディーゼル対日産自動車の楚輪博選手

この写真は1983年6月26日、山梨県営緑が丘サッカー場で行われた第8回JSLカップ決勝戦の日産自動車戦に出場したヤンマーディーゼル主将の楚輪博選手です。
この決勝戦では、攻める日産自動車(現横浜F・マリノス)に対して、ヤンマーディーゼル(セレッソ大阪)が再三のピンチを凌ぎ、後半日産のオウンゴールによる幸運な1点をGK坪井を中心とした守備陣が最後まで守り抜いて、1980年日本サッカーリーグ優勝以来のタイトルとなるJSLカップ初優勝を果たしました。

広島県工から法政大学を経てヤンマーへ

楚輪博さんは1990年にヤンマーディーゼルで現役を引退した後、セレッソ大阪で指導者になって、1996年にパウロ・エミリオ監督の辞任を受けて監督に就任、翌年からは鳥栖フューチャーズの経営難で新たに発足したサガン鳥栖の初代監督を務めました。2004年から監督になったYKK AP、その後アローズ北陸との統合で生まれたカターレ富山の監督を長く務めていたことでJリーグファンのみなさんの記憶にも残っているのではないでしょうか。

楚輪さんは広島県出身で県工(広島県立広島工業高校)で活躍されました。全国高等学校サッカー選手権大会にも出場しましたが、この頃の県工出身者には、金田喜稔、木村和司、石崎信弘ら錚々たるメンバーがいました。卒業後、法政大学からヤンマーディーゼルサッカー部に入部しましたが、法政大学の頃はずっと日本ユース代表チームのキャプテンも務めていました。

1983年6月26日第8回JSLカップ表彰式で優勝カップを掲げる楚輪博選手

ヤンマーの黄金時代を受け継ぐ

楚輪さんのプレーは懐の深い独特なボールの持ち方が特徴で、なかなか彼からボールを奪うことはできなかった。ものすごくスピードが速いとか、そういう類の選手ではないんですけど、非常に重心が低くてトコトコトコトコってボールを運んでいって、なんか知らないうちにポンって点を取ったり、パスセンスもすごく良くてアシストも彼の持ち味でした。

楚輪さんと僕は結構仲良しだったんです。ユース代表の試合遠征の時はいつも楚輪さんから僕の方に寄ってきてくれた。人懐っこくて、なんだかんだ話したりして、「あの写真ちょうだいよ!」とか「あの写真いつになったらくれるの?」とか、ため口を聞きながらいつも仲よくしてくれました。

ヤンマーに入った当時は、現役最後の頃の釜本邦茂さんやネルソン吉村さんと一緒にプレーして、大先輩たちにもかわいがってもらっていました。ポジションはミッドフィルダー、その当時はゲームメーカーっていう感じでした。ボールを集めてどこに配給するかっていう、今からすると緩やかなサッカーだったわけですが、それはそれでいい時代でしたよね。その後、釜本さんやネルソン吉村さんらヤンマーの黄金期を築いた選手たちから、後を託されました。

日本サッカーリーグ時代の楚輪博選手。左は金田喜稔選手。

松本育夫さんとリエカ国際ユースサッカー大会のこと

でもユース代表の頃──法政大学の時かな──も華だったかもしれないですね。日本代表としても朝日国際サッカー大会の1FCケルン戦などに出場していますが、松本育夫さんが日本ユース代表監督だった頃(1972年~1978年)にキャプテンを務めていました。日本でワールドユース大会が開催された1979年の、尾崎加寿夫さんや水沼貴史さんらのユースチームはよく知られていますが、その前の世代のユース代表だった。

1976年に旧ユーゴスラビアのリエカ(現在はクロアチア)が日本代表と国際親善試合をしたことがあって、その返礼の意味もあったと思いますが、日本ユース代表がリエカで行われていた国際ユースサッカー大会に招待された。ちょうど松本育夫監督がユース代表候補の若い選手たちとチーム強化に乗り出した頃でした。楚輪さんはその時の中心メンバーで、確か楚輪さんがキャプテンだったような気がするなあ……。当時はビザがないと東欧諸国に入国できない時代だったから、手続きがとても大変だったんですが、よくあんな遠くまで行きましたね。

リエカ国際ユースサッカー大会は欧州でも由緒ある大会らしくて、若かりし頃のフランツ・ベッケンバウアーがその大会で頭角を現したって言われている有名な大会なんだけど、ただその大会は「クラブチーム」の参加が主体の大会だったから、「日本ユース代表」という名義での参加ではなかったような気がします。日本国内のユース選抜のような形で参加したんじゃなかったかな? その次の1977年にアジアユース選手権大会があって、その強化試合の一環だったと思います。

僕はその大会の前に西ドイツにいて、リエカへその大会の取材に行ってって頼まれて、西ドイツで急いでビザを取ってリエカに向かいました。もちろん現地集合で、案内状もなにもなくて、どうやっていったらいいんだろう? インターネットどころかファクスもない時代だったから、ユース代表チームがどこにいるのかもわからなかった。

ただ、向こうのサッカー協会の住所だけはわかっていて「電車とバスを乗り継いで行って詳細はそこで聞いてください」っていわれて、機材や荷物をいっぱい持って、リエカについてバスの運転手さんに住所を見せて頼みこんだら、隣に座らされて、停留所でもなんでもないところでポイって降ろされてようやく着いた。

大会自体はリエカの周辺都市をずっとバス移動で試合をしてまわりました。朝宿舎を出て、昼過ぎに試合会場について試合をして、試合が終わるとまたバスに乗って、帰ってくるのは夜で……向こうに人たちは8時間くらい街から街を移動して試合するのは平気だった。

リエカですごく勉強になったことは、松本育夫さんはコーチングを四六時中やる指導者だったんだけど、現地のコーチとの懇親会で「あんなに試合中ずっとコーチングしっぱなしだと若い子たちが自分で考える力がなくなる」と懇々と言われたんです。ご本人は釈然としなかったみたいだけど、それもまた勉強になって、次の試合からはあまりコーチングしなくなった。「選手は自発的に考えなければいけない。ピッチ出たら選手に任せるしかないんだ」って考えるようになった。当時の日本ではそういうふうに考える指導者はあまりいなかった気がします。

日本サッカーリーグ時代の楚輪博選手。ヒザのテーピングが痛々しい。

現在は明誠高等学校サッカー部監督

でもサッカーって本質的にそういうスポーツなんだよね。試合になったらピッチの選手たちに任せてやっていかなければいけないって考えるようになって、そういう指導が選手たちをすごく成長させたと思います。いろんな意味でいい大会でした。監督コーチに言われるがままではなくて、自分で考えてやらないといけないってことも学習した。だから楚輪さんたちが松本育夫さんからピッチの中で自発的に考えてプレーするように指導された第一世代なんだと思います。

楚輪さんは派手さはないけど、ボール扱いがとても丁寧で頼りになる中盤の選手でした。この写真からもわかるように、練習のやりすぎでヒザがよくなかったので、いつもテーピングをグルグル巻きにしていました。昔の高校サッカーで活躍していた選手たちは、多かれ少なかれみんなヒザはやってしまっていた。なかなか治らないし、治らないうちからまたプレーしなければいけなくて、だからヒザに水がたまってしまって、みんなだましだましみんなやってましたね。

監督としては、たしか藤島信雄さんも監督だったYKK APを率いて、その後カターレ富山の監督にもなって、Jリーグ昇格を果たした。カターレ富山の監督の時は、都内でリーグ表彰式と懇親会で顔を合わすことがあったけど、会うたびに「富山にも来てよ!」「もういつクビになるかわかんないんだよ!」って冗談を言っていたんだけど、YKK AP時代からカターレ富山になってからも含めて7年も監督をやってたんだね。いまは会う機会もなくなってしまいましたが、現在も島根県の明誠高等学校サッカー部で監督としてご活躍されているようでなによりです。

ゴールデン横丁の仲間たち | 今井 恭司(いまい きょうじ)

https://goldenyokocho.jp/articles/671

世界中を飛び回り最前線で日本サッカーを見つめてきたイマイさん。蔵出し写真とトークをゴル横だけにお届けします。2017年8月1日、日本サッカー協会により「第14回日本サッカー殿堂」に掲額されることが決定しました(特別選考)。

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