北澤豪 ‐ 火の玉小僧と社会貢献

北澤豪 ‐ 火の玉小僧と社会貢献

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「北澤豪 ‐ 火の玉小僧と社会貢献」をお届けします。


1992年11月アジアカップで初優勝を果たした試合後の北澤豪選手

この写真は、1992年11月8日、第10回アジアカップ決勝戦でサウジアラビアを1対0で下した試合の後、ウィニングランで笑顔を見せる北澤豪選手です。

本田技研サッカー部から読売クラブへ

北澤豪選手の思い出もいっぱいありますね。下町の修徳高校在学中には全国高校サッカー選手権大会にも出場して、卒業後の1987年に日本サッカーリーグ1部の本田技研工業サッカー部(現在のHonda FC)に入って、90/91シーズンの日本サッカーリーグでは得点王(10得点で読売クラブの戸塚哲也選手、日産自動車のレナト選手と同時受賞)にも輝いて、一躍脚光を浴びるようになりました。

2枚目の写真はまだ彼の髪が伸びる前の珍しい写真で、1991年4月4日ソ連の強豪だったスパルタク・モスクワとの親善試合で日本代表にデビュー。それに続くキリンカップサッカー'91のタイ代表戦でインターナショナルAマッチにも初出場して、このキリンカップでは2得点をあげる大活躍でした。

確か高校までは注目を浴びるような選手じゃなかった気がするんですが、本田技研に入ってリーグ得点王を獲得して、なんといっても1991年にジュニアユースに在籍して縁のあった古巣の読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)に移籍してからですよね。

彼はそんなに背は大きくないけれど、現役の時はまあ本当によく動いてましたね。それに加えて戦術眼がすごく優れていた。読売クラブの中にあっては、技術がものすごく高いっていうわけではないんだけど、やっぱり彼の持ち味は、「ダイナモ」と称されたほど試合終了まで尽きることのない豊富な運動量とポジショニングのよさでした。あれだけ試合に使ってもらって、どんどんどんどん2列目から最前線に上がっていった。もちろん、当時の相棒にはカズさんやラモスさんをはじめ、優れたプレイヤーたちがいたこともいいプレーができた要因だったのでしょう。

代理人制度の草分け

実はこのころ、Jリーグも開幕前で、代理人制度がまだ整っていなかった時代に、北澤さんが現ジェブエンターテイメント代表の田邊伸明さんと組んで、初めて代理人契約みたいなことを始めたんです。その頃、日本人選手で代理人を立てて、所属するクラブとどうのこうのって契約交渉をしたりするのがまだ珍しい時代に、ふたりでいろいろ相談しながらそういう試みを始めて、どうするこうするって田邊さんも彼を介していろんなことを勉強しながら、代理人っていうのはこういうことしなきゃ、選手に代わってこんなことを言わなきゃっていろんな経験を積んでいった。そのあとにFIFA公認代理人の試験が必要になって、それじゃってんで猛勉強して、日本で何番目かのFIFA公認代理人にもなった。それは、一にも二にも北澤さんとの出会いから始まったことなんです。そんなわけで日本サッカー界の代理人制度の草分けは、北澤選手と田邊さんの繋がりからだったんですね。

1991年4月、スパルタク・モスクワ戦の北澤豪選手

社会貢献活動への取り組み

いつだったか忘れましたが、たまたま空港ロビーで北澤さんにばったりお会いした時、「これからカンボジアに行くんだよ!」って聞いてちょっとびっくりしました。現役を引退してサッカー解説者として活躍し始めたころで、カンボジアに行ってサッカーを通じて子供たちと交流したり、国際貢献活動を始めたっていう話も、最初は本人からじゃなくて田邊さんに聞いたんだったかな……。カンボジアでグラウンドや学校を作ったりする支援活動もそのころからずっと継続していたと思います。2003年にJFAアンバサダーに就任する以前からそういう活動をされていたようです。グラウンドを作って、学校を作って、そこにボールを持っていって、子供たちといっしょにサッカーをする。本人に言わせると、「そんなに何千万もお金がかかるようなものではなくて、学校ひとつ作るっていっても大したあれじゃないんだけど……」っていうけれど、休みの時には結構行ったり来たりしていたようです。(JICAオフィシャルサポーター 北澤豪さん)

そういう意味でいうと、トップクラスの元日本代表選手として、非常になんかこう、口で言うのは簡単ですが、『夢を実現する』じゃないですけど、サッカーを通じての地域社会への貢献とか、国際的な支援活動にも積極的に取り組んでおられますよね。そういう活動をやっていたので、当時日本サッカー協会からJFAアンバサダーに選ばれたのも、そのためにやったんじゃなくて、そんな制度がある前から、北澤さんなりの考えがあって、サッカーの普及活動や支援活動をやっていたはずです。アンバサダーっていうと、功労賞的というか、ちょっと客寄せっぽくも見えてしまうところもあるんだけど、そうじゃなくて北澤さんの活動を日本サッカー協会も認めてくれたんだと僕は思うんですよ。だから、彼のそういう面でも前向きで、積極的で、活動的なところは、本当にすごいなと感心しています。

サッカースクールをやったりしていても、彼は面白いっていうか、子供がぴったりくっついてくるキャラクターなんですよね。それは他の選手たちがやっているのを見ながら、自分なりの独自の指導方法や特色を出して、決して同じことはやらない人なんです。だから、現役を終わってからもそういうふうにサッカーとの関わりや、フットサルの普及や、障がい者サッカーと関わりにもすごく力を入れているじゃないですか。そういうのを見ても、本当にえらいなあ、現役を退いてピッチを離れても、いつでもどこでも一生懸命なんだなあと思いながら、彼の活動を見守っています。

W杯アジア最終予選最後の切り札

日本代表や読売クラブ、ヴェルディ川崎から東京ヴェルディにいた頃も、周りのレベルはとても高かったから、いつもスタメンが約束されていたわけではなかった。だからスタメンとベンチの境界線のギリギリのところで、いつもストレスを抱えていたに違いないわけですが、それでもやっぱりめげることなく、いつも一生懸命に全力でやっていましたよね。だからなんでも全力で一生懸命やらないとダメだってことですよね。彼なんかを見てるとやっぱり本当にそう思います。

1998年FIFAワールドカップフランス大会を思い返すと、今にして思えば、北澤選手がいたらなあって思わないこともない。やっぱりこういう選手がいないとね。必要なんですよ、北澤さんみたいな「ダイナモ」のようなプレイヤーが。とにかく押されてばっかりじゃなくて、リスクを背負って攻め上がらないといけない時には、彼のような「火の玉小僧」がいないと、やっぱり試合の主導権を握ることはできない。いや本当に「火の玉小僧」でしたよね。

1997年のワールドカップアジア最終予選でも、加茂周監督が指揮を執っていた頃は招集されたりされなかったりが続いて、岡田武史監督になってからは、危機的状況だった最後の3試合(アラブ首長国連邦戦、韓国戦、カザフスタン戦)と、イランとのアジア第3代表決定戦を含めた大一番に、最後の切り札としてスタメンに起用されて活躍して日本のワールドカップ初出場に大いに貢献しましたよね。

あのドーハの悲劇の時も、ラモスさんが「北澤を出せ!」ってオフト監督に言ってたらしいしね。プレイヤーから見ても評価されるタイプの選手だったってことで、やはりみんなが疲れて運動量が落ちている時に、こういう選手がひとりいることによって、すごく周りの選手は楽になるんですよ。とにかく一歩でも二歩でもちょっとでも前に前にボールを持って行ってくれるっていうのがあると、後ろが非常に落ち着いて安定しますし、どこまで意識してやってるかっていうのはありますけど、現実的にはそういうふうになっているわけだから、やっぱりこういう選手はいつみてもすごいなと思ってみていました。

川淵三郎さんも称えたプレースタイル

本田技研から読売クラブに移籍して、ヴェルディ川崎から東京ヴェルディに変わって、主力の仲間たちが次々とクラブを離れてからも、最後までヴェルディの選手であることを貫いた。

僕もちゃんとした記憶じゃないんだけど、Jリーグが始まって間もない頃に、川淵三郎さんが選手たちの試合の動きとかを見て、こういうふうになってくれれば、もっともっとJリーグは活性化するのになあっていうことを言ったんですが、その時に引き合いに出したのが北澤さんのプレーだったんです。川淵さんがなにかの席でそういうふうに北澤さんのプレースタイルを称えて言ったんですが、面白いですね。そのくらい一生懸命ピッチの上をアグレッシブに走り回ってプレーしていたってことなんですけど、それをあらためて思い出しました。

1991年7月、パルチザン・ベオグラード戦の北澤豪選手

ゴールデン横丁の仲間たち | 今井 恭司(いまい きょうじ)

https://goldenyokocho.jp/articles/671

世界中を飛び回り最前線で日本サッカーを見つめてきたイマイさん。蔵出し写真とトークをゴル横だけにお届けします。2017年8月1日、日本サッカー協会により「第14回日本サッカー殿堂」に掲額されることが決定しました(特別選考)。

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