平木隆三 ‐ メキシコ五輪銅メダルの名参謀はやさしい鬼軍曹

平木隆三 ‐ メキシコ五輪銅メダルの名参謀はやさしい鬼軍曹

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「平木隆三 ‐ メキシコ五輪銅メダルの名参謀はやさしい鬼軍曹」をお届けします。


1976年4月、日本代表対イスラエル代表戦前の長沼健監督(左)と平木隆三コーチ(右)

この写真は、1976年4月11日、イスラエルのテルアビブで行われたモントリオールオリンピックアジア地区予選、日本代表対イスラエル代表戦前の長沼健監督と平木隆三コーチです。
この試合はイスラエルに敗れてしまいましたが、写真のように、長沼健さんが日本代表監督を務めた1960年代から70年代にかけて、長沼さんの横にはいつも平木隆三さんがいて、監督をしっかり支えていたという印象があります。平木さんというと名古屋グランパスの初代監督というイメージが強いと思いますが、私の印象はちょっと違います。

初の日本サッカー協会「有給職員」のコーチ

平木さんは、現役時代は関西学院大学、湯浅電池を経て古河電工(現在のジェフ千葉)に入りましたが、関西学院大学卒で古河電工の選手だった長沼さんの1歳年下になります。日本代表として、1956年メルボルン五輪、1964年東京五輪に出場。開催国のメキシコを破って銅メダルを獲得した1968年メキシコ五輪では、コーチとして長沼健監督と岡野俊一郎コーチを支えました。

その頃の日本代表コーチは企業からの出向扱いでしたが、平木さんは確か初めて日本サッカー協会の「有給職員」のコーチになったと記憶しています。形として日本サッカー協会の「職員」という待遇にしたのは、監督が代わるとコーチも一緒に代えないといけなかったのですが、この頃は出向扱いでコーチを出してくれる企業がそんなになかったのと、平木さんがコーチ役として飛び抜けて優秀だったからではないでしょうか。

この頃、日本サッカー協会にも日常業務を手伝ってくれる「マネージャー」はいるにはいましたが、学生のアルバイトがパートタイムでやってくるくらいで、監督コーチといえどもサッカーの指導以外の仕事も自分たちでやらないといけなかった。

例えば、試合遠征の航空券やバスや宿舎の手配、現地での練習場の確保から代表選手たちの引率、試合や練習用具の準備から食事の手配に至るまで監督コーチの仕事でした。アルバイトのマネージャーは本当にお手伝いさん程度の役割で、会社の総務や庶務の中でも一番割に合わないような仕事、というか雑用もコーチがやらなければいけなかった。

もちろん選手たちに対しても、平木コーチは兄貴分として一緒に練習もこなしていました。というのは、紅白戦とかの人数はいつも人が足らなかったから。とにかく八面六臂の活躍で長沼監督を支えて、代表チームを強くするために本当に寝る暇もないくらい働いていたんじゃないかな。東南アジアに遠征に出かけた時には、平木さんが現地で冷蔵庫をレンタカーで借りてきたりとか、もういつも影になり、影になり、影になり……で代表チームのために尽くしてくれる人でした。

平木さんはそれに対して文句ひとつ言わなかったし、常に親分を立てるような仕事っぷりでした。あの頃の日本代表のエピソードとしてよく出てくるのは、デットマール・クラマーさんが西ドイツから指導者としてやってきて、長沼健さんが監督で、岡野俊一郎さんがコーチでっていう話が多いけど、実は平木さんが彼らを立てながら影でしっかり支えていたんだろうなと感じます。

練習場確保もお金の勘定もコーチの仕事

とにかく、当時の日本サッカー協会はお金がなかったし、常勤の職員は二人か三人くらいしかいなかったと記憶しています。だから日本代表戦のチケットを売るようなこともコーチはやらないといけなかった。その中でも例えば、当時のコーチの一番の仕事は、日本代表チームが練習するグラウンドを抑えることで、代表選手強化期間中に借りられる練習場はないか、サッカーグラウンドを所有している企業に片っぱしから電話して頼んだりするのも日常業務だった。

当時、相模川の河川敷にあったフジタ工業(現在の湘南ベルマーレ)の大神グラウンドや、人工芝の三菱養和調布グランドや、東京大学の検見川グラウンドを借りたりとか、そんな手配も平木さんがやっていました。本来はコーチだから「マネージャーみたい」なんて言ったら怒られちゃうんだけど、とにかくなんでもやらないといけなかったんです。でもそういう仕事も全てしっかりこなす凄い人だった。

総務や庶務のような仕事をする時も、サッカーの指導をする時も、平木さんの姿勢で一貫していたのは、いい時にはちゃんと選手やスタッフを褒めて称えるし、一方でダメな時は「ダメなものはダメ!ダメダメ!!」って筋を通した。選手だけでなく誰に対しても常にそういう接し方で、とにかくすごく人望がありました。

練習の時には、今はフィジカルコーチがやっているようなフィジカルトレーニングも平木コーチが担当していて、真っ先にグラウンドに出て先頭を切って走ったりするのも平木さんで、次あれ! 次これ! って練習メニューも平木さんが指示を出して進めていった。もちろん長沼監督と打合せはできているんだろうけど、とにかく人がいなかったから、ウォーミングアップから控え選手の練習まで全て平木さんがやるしかなかった。もう弁慶じゃないけど、いつもいろんな道具を10個くらい身体中に担いでやっていたような印象があります。

海外遠征に出た時は、お金の勘定もみんな平木さんがやっていましたし、飛行機のチケットもこの頃はまだリコンファーム(搭乗前の予約再確認。事前にこの手続きをしないと予約がキャンセルされることがあった)しないといけなかったので、全選手の手続きの面倒もみていました。出発前に旅行会社から聞いたことを現地で実行して、上手くいかなければ航空会社に電話して、それでも埒があかなければチケット持って空港のカウンターに行ったりとか、それはもう本当に大変でした。でも間違いはなかったですよね。やっぱりアタマがよかった。

だけど、皆さん平木さんのことをあまり評価されないのはなぜなんだろう? ってずっと僕は不思議に思っていました。「なんでだろう……」って考えた時に、日本ってやっぱり肩書き社会なんだよね。「監督」とか「会長」って肩書きがないとスポットライトが当たらないし、評価もされにくくなってしまっている。でもメキシコ五輪の銅メダル獲得以降、日本代表が弱くて日の目を見なかった頃でも、日本代表チームを支えていた一番の功労者は平木さんじゃないかな。

名古屋グランパスの監督時代、北海道合宿を取材に行った時、昔の代表コーチの時と同じような感じでやっているなと思いました。監督になってからもなんでも自分でやらないと気が済まないタイプだったのかな。当時はプロ化したばかりで、専属スタッフを集めて間もない頃だった。たぶんこの人ほどできる人はいないから、自分でやらないと気が済まなかったのかもしれません。

東大検見川グラウンドでの日本代表の練習に加わる平木隆三コーチ。後方は清雲栄純選手と森孝慈選手

長沼体制を影で支えたやさしい鬼軍曹

タイプとしては本当は「鬼軍曹」なんだろうけど、「やさしい鬼」なんだよね。だから長沼さんとも永くつきあえた。平木さんがいろんな歯止めになって、「それはまだ健さんに言うな」って自分で抱えてから、機会のある時に必ず健さんにこうこうこうでって報告するような感じだったと思います。そういう機転が利いたり判断が良かった、というか絶妙でした。サポート役としての人間性というか、空気が読める名参謀のような役割を影ながらしっかりとこなしていました。

32歳の若さで日本代表監督に就任された長沼健さんは、技術委員長、専務理事、副会長、会長と日本サッカー協会の要職を長く務めてこられたわけですが、監督コーチ時代と同じような関係で、平木さんがナンバー2的なポジションに就かなかったのはなぜなんだろう、と思ったことはあります。おそらく平木さんは「わしゃいい、わしゃいい」って言って、あえてそうはならなかったんじゃないかな。

長沼さんは平木さんのことを「ペラ」って呼ぶんだけど、協会の仕事もサポートしてくれないか……ってたぶん平木さんに頼ったことはあるんじゃないかと思っています。でも平木さんは「僕はやらない方がいいですよ。それも僕がやったら、みんな健さんについて来なくなるんじゃないでしょうか」って率直に言えるような人だった。なんというか、そういう空気が読める人でした。

そんな感じで、平木さんは「俺が! 俺が!」の人ではなかったし、そこが一番尊敬できるところだった。古河電工の先輩後輩の関係を続けながら、長沼さんと裏方仕事もずっと一緒にやってきたわけだけど、やっぱりそこは昔の人なんだよね。「武士道」じゃないけれど、仁義とか、誠意をもって縁の下から上司を支えるとか、そういうことができる人でした。選手たちにも「きちっと挨拶せいや!」ってそういう礼の心も本当に厳しく言っていました。

まさに名参謀。サッカーだけでなく雑多な実務ができて、監督を立てて、選手の兄貴分もしっかり務める。こんな人いませんよね。この世界にも人の寝首を掻いて「俺が! 俺が!」の人もいるけれど、そういうところは全くなかった。

もし長沼さんにずっと付いていって、ナンバー2的なポジションで組織を仕切っていたとしたら、いずれはトップになっていてもおかしくはなかったけど、あえてそうはならなかった。外から見ていると不思議なんだけど、平木さんご本人にとってはそれが義にかなった行動だったんだと思う。人間的な魅力があるし、彼の行動によってさらに上が引き立つ。「二人三脚」ってよく言うけど、それ以上の関係だったし本当に深い絆でした。

取材で写真を撮ったりする時も「わしゃいいから。ちゃんと選手たち撮ってや」っていつも選手を引き立たせようとしていた。だからもっとたくさん平木さんの写真はあると思ったんだけど、あまり残っていないんですよね。

ゴールデン横丁の仲間たち | 今井 恭司(いまい きょうじ)

https://goldenyokocho.jp/articles/671

世界中を飛び回り最前線で日本サッカーを見つめてきたイマイさん。蔵出し写真とトークをゴル横だけにお届けします。2017年8月1日、日本サッカー協会により「第14回日本サッカー殿堂」に掲額されることが決定しました(特別選考)。

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