浅見俊雄 - 笑顔でゲームを作る国際派レフェリーの先駆者

浅見俊雄 - 笑顔でゲームを作る国際派レフェリーの先駆者

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「浅見俊雄 - 笑顔でゲームを作る国際派レフェリーの先駆者」をお届けします。


浅見俊雄さん(日本サッカー協会顧問)

サッカーのレフェリーとしてはもっとお年を召した方もいらっしゃいますし、日本のレフェリーの草分けというわけではありませんが、浅見俊雄さん(日本サッカー協会顧問、東京大学名誉教授、日本体育大学名誉教授)が国際審判員として海外に行って、多くの国際試合の主審を務められた経験を日本に持ち帰ってきたことで、日本の審判のレベルやクオリティを高めていったということは間違いないと思います。

あたたかくやさしいレフェリング

もちろんそれだけではなくて、東京大学や日本体育大学で教鞭を執りながら、FIFA国際審判員としても活躍し、日本サッカー協会審判委員長(1983年~1998年)や、オリンピック報道でも話題になった西が丘にある国立スポーツ科学センターの初代センター長も務められました。2010年には日本サッカー殿堂入りもされていますが、サッカーの審判の資格を取った方たちには『サッカーレフェリーズ』シリーズの著者としてもおなじみだと思います。

浅見さんが現役の審判員だった頃のレフェリングは、あたたかいというか、非常にやさしいんですよ。なんかこう、いきなり選手に対して高飛車に出たりするんじゃなくて、「おいおい、それやってると次はカード出るよ」くらいなことを言いながら、選手を諭すようにしてお互いにコミュニケーションをとりながら、ピッチの選手たちとゲームを作っていった。やっぱり選手も人の子だから、例えばお巡りさんが立っていればスピードの出し過ぎにも気を付けるじゃないですか。それと同じじゃないかっていつも思うんです。今はこういうレフェリーもなかなかいないような気がします。

選手に対して「おまえなー!!」っていう態度のレフェリーじゃなくて、「ちょっとあれは危ないよ。後ろからいっちゃダメだから気をつけよう!」っていう感じで、それもにこやかに言うんだよね、浅見さんは。だから本当にこの人がレフェリーだと試合が荒れなかったんですよ。

国際経験を日本国内へ

海外に渡って長期間の国際大会で主審を務めた時も、いろんな国からレフェリーが集まる審判委員会みたいなところで、「みんなで朝錬しよう!」っていって、朝食前にみんなで集まって走ったり、ざっくばらんなミーティングをしたり、そういう習慣を日本に持ち帰ってきたりして、日本の審判委員会の礎を築いたりもした。

当時はアジアのレフェリーって、あまりレベルは高くなかった。ゴールに入っていないのにゴールの判定をしたりとか、そんなこともあった。それに加えて、その頃のサッカー日本代表は、アジアの中では決して強豪とはいえなくて、アジア地区の国際試合でもなかなか決勝まではいかなかったから、そうすると「アサミ!」って呼ばれて、重要な試合の笛を任されたりとか、そういう信頼も厚かった。日本代表が強くなかったばっかりに、結果的に浅見さんがたびたびそんな試合で笛を吹く機会はとても多かったんです。

それに、アジアサッカー連盟(AFC)が主催の大会で、浅見さんが笛を吹くんだったら他のレフェリーたちも納得した。AFCの審判員の中では知らない人はいないっていうくらいの人だったし、そのくらいレベルも高かった。もちろん他にもレベルの高いレフェリングをする審判員もいたわけだけど、ミスジャッジをすると大会開催期間中でも国際大会から外されてしまうわけですが、この人は絶対そういうミスはしなかった。

それに、元日本サッカー協会会長の藤田静夫さんとはまた別の意味で、審判の世界でアジア各国のレフェリーたちとの交流を積極的に進めていったさきがけ的な存在でした。いろんな大会開催中でも、審判員は審判員でいろいろと交流を深めながら、お互いに勉強したり、各国で施設の見学とかもしていた。国際試合が終わって、それぞれが国に帰ってからも審判員同士でコミュニケーションをとったりもしているから、次の国際試合は誰に任せようかとか、どこの国から審判団を招聘しようかとか、そういう話はとても進めやすかった。でもみんな浅見さんになんて言うかというと「なんかあったらオレを呼んでくれ!」って言ってたらしい。みんな日本に来たかったんだって。

でも浅見さんはこの笑顔で、そんな仲間たちのこともよく見ているから、このレフェリーがいいか悪いか、次の国際試合に合うか合わないか、その辺の判断は結構シビアにやっていた。だからこそこれだけ長く一線でやってこれたのだと思います。

ムルデカ大会期間中の朝練にて、左から二人目が浅見俊雄さん

例えば、試合のレフェリングの実績だけでなく、大会期間中の試合の合間でも朝早くに一緒に走ったり、朝錬のあとにみんなと朝食をとったり、そのあとで勉強会をやったりしながらも、そういう普段の生活も含めて彼らの人柄もよく見てるわけです。きちんと時間通りに参加しているか、他の仲間たちと協調性はあるか、前の晩に深酒してないか、寝坊して遅刻してこないかとか、いろんなことも全部加味して審判員たちを評価した。

昔のアジアのレフェリーたちは悪い噂を立てられたこともあったんだけど、浅見さんは絶対にそういうことはない人でした。そういうのはみんな見ているし、ちゃんとした立ち振る舞いって大事なんですよ。そこに浅見さんのこんな笑顔をプラスしたら、もう鬼に金棒ですよね。こういう笑顔を作れって言われても作れやしないし、持って生まれたものなんでしょうね。天性のモノがあって審判員をこれだけ長くやれたのは、やっぱり天職なんだと思います。浅見さんにすごく合っていたんじゃないかな。

笑顔でゲームを作る

僕はこの人のジャッジの仕方は大好きで、やっぱり選手のそばに行ってから、高飛車じゃなくて、選手の顔をしっかり見て、カード出す時も穏やかな諭すような表情でカードを出されると、選手も怒れないじゃないですか。重要な国際試合でも変わらずにそういう対応ができる人だった。ワールドカップの決勝を任されるような主審も高圧的というよりはコミュニケーションをしっかりとれる雰囲気をもった方が多いような気がします。

だって、反則を犯した選手たちも本当は自分でわかっているからね。そういう時に「ガァー!」って高圧的に来られると、つい反抗的になってしまうこともあるけれど、こういう笑顔で来られると「いやーすみません・・・」ってなっちゃいますよね。ピッチ上のプレイヤーとレフェリーでゲームを作るっていう意味では、杓子定規のジャッジをするだけじゃなく、それ以外の役割もサッカーのレフェリーには求められているんだと思います。浅見さんはそういうゲームを作れるレフェリーだったように思います。

みんなこの笑顔で騙されたかな(笑) 騙されたなんて言うと怒られちゃうけど、この笑顔がトレードマークだったから。誰に会うときでもこの笑顔で接してくれるんです。

冒頭の写真は、取材とかは関係なしに、浅見さんに「写真撮って」って言われて撮ったような気がします。僕は個人的には浅見さんにすごくお世話になりました。自分がまだペーペーの20代で海外に取材で行ったりした時に、いつも同行の審判員が浅見さんで、選手団長が藤田静夫さんで、このおふたりになんだかんだかわいがってもらいました。

お金もないころだったから「じゃあ、一緒にご飯食べに行こう!」って誘われて「その代わりみんなの写真撮って」って頼まれてくっついて行ったりとか。右も左もわからない海外で、今日の晩御飯はどうしようか・・・なんて困ってた時だったから本当に助かった。彼らと仲よくしていると、地元のレフェリーたちの行きつけの安くておいしいご飯にもありつけるしありがたかったです。

1977年のペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン

この写真は、1977年9月14日、国立競技場で行われたペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパンでの日本代表対ニューヨーク・コスモス戦の1シーンです。この試合の主審も浅見さんが任されたんです。多分、ペレを削って西野朗さん(前日本代表監督)がカードをもらったところじゃなかったかな・・・西野さんは本当にアイドルだったんですよ。さすがに“サッカーの王様”ペレの引退試合だけあって、この試合はお客さんでいっぱいだったですね。ペレはサントス時代以来の親善試合でしたが、1970年代だったけどサッカーでも国立競技場にこれだけはいったんですよ。

ゴールデン横丁の仲間たち | 今井 恭司(いまい きょうじ)

https://goldenyokocho.jp/articles/671

世界中を飛び回り最前線で日本サッカーを見つめてきたイマイさん。蔵出し写真とトークをゴル横だけにお届けします。2017年8月1日、日本サッカー協会により「第14回日本サッカー殿堂」に掲額されることが決定しました(特別選考)。

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