岡田武史 ‐ 日本をワールドカップに導いた指揮官

岡田武史 ‐ 日本をワールドカップに導いた指揮官

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「岡田武史 ‐ 日本をワールドカップに導いた指揮官」をお届けします。


9月10日JFAハウスで行われた日本サッカー殿堂の第16回掲額式典での岡田武史氏

この写真は2019年9月10日、JFAハウスで行われた日本サッカー殿堂の第16回掲額式典にて、記念の盾を贈られた岡田武史さんです。ことしは岡田さんと2011年になでしこジャパンをワールドカップ優勝に導いた佐々木則夫氏、そして1996年のアトランタ五輪代表監督で昨年のワールドカップロシア大会では日本代表を決勝トーナメント進出に導いた西野朗氏が殿堂入りしました。

清雲栄純監督と加茂周監督の参謀役

岡田武史さんは古河電工(現在のジェフユナイテッド市原・千葉)で選手生活を終えて、そのまま古河電工で指導者の道に進みました。当時の監督の清雲栄純さんもハンス・オフト監督の名参謀として、“ドーハの悲劇”で有名なFIFAワールドカップ初出場まであと一歩のところにまで迫った指導者ですし、オフトさんが退任した後には、清雲さん自身がもう一度監督としてクラブチームでサッカーを指導したい、という強い意欲に溢れていました。その清雲さんの参謀役で、岡田さんはジェフでサッカーの指導を始めていました。まだJリーグは始まったばかりで、モダンなサッカー理論とはちょっと違って、ラグビーのやかんの水じゃないけれど、そういう古い時代から受け継いだ習慣や、旧態依然とした環境が残っていたりしたわけですが、それでも自分の理想とするサッカーを選手たちにわかりやすいビジョンで示しながら、できるだけ理詰めでサッカーの指導ができるような体制をめざしていたと思います。

1994年10月29日ジェフ市原対ヴェルディ川崎戦の清雲栄純監督と岡田武史コーチ

アマチュアリーグからプロサッカーリーグへ

日本にプロサッカーリーグのJリーグができて、最新のビデオ機器を使ったりとか、いままでにないようなやり方で試合データを解析したり、統計学的な戦術分析ができるようになったのと、監督やコーチだけじゃなく、スカウティングチームを編成して、対戦相手の綿密な分析もできるようになったのは大きかったと思います。プロ化とともに時代の流れが大きく変わってきて、そういう新しいモノを利用するのが許されるくらいのおカネも使えるようになった。人やソフトを使う、イコールおカネがかかるってことですからね。

ジェフで清雲栄純監督のコーチだったとき、1994年に日本代表監督に就任した加茂周監督の元でコーチに就いたのも、時代としてはJリーグが発足して間もない頃でした。それ以前の日本サッカーリーグの頃には、現役引退後に若くして監督になった選手もいたけれど、でも時代も変わって、1997年のアジア地区最終予選のさなか、加茂監督更迭のあとでいきなり監督未経験の岡田コーチが日本代表監督就任っていうのは、やっぱり早かったですよね。当時大御所だった加茂さんと一緒になって日本代表チームを指導する機会を得たばかりで、それこそ初期のJリーグの監督に招聘された海外の監督たちも、ある程度の歳が上の経験豊富な方が多かった。まあだから、まだコーチ修行中にいきなり日本代表監督になっちゃったわけです。

1997年9月7日国立競技場でのウズベキスタン戦の加茂周監督と岡田武史コーチとジョゼ・マリオコーチ

監督未経験のまま日本代表監督に就任

岡田さんがコーチとしてついた加茂周さんも日本人の監督経験者の中では最も画期的な考え方の持ち主だったし、一番進歩的だったし、実績としても成功を収めた監督でありました。加茂ジャパンを引き継いだ岡田さんの方針としては、加茂さんの考え方を踏襲して、日本のストロングポイントを伸ばしていこうということだったと思います。そこにプラスアルファとして、自分の考え方を抽入していけるわけですが、監督就任からワールドカップ出場権を獲得する、という目に見える結果を求められるまで、残された時間はそれほど多くはありませんでした。

でも本当に、カザフスタン戦後に加茂さんから監督職を受け継いだときには、チーム自体はもう死に体同然だったからね。もう誰が考えたって「ああ、またこんどもダメだったか……」って思っていたところだった。監督就任一発目の試合となったアウェーのウズベキスタン戦も、前半30分に先制されて、攻めても攻めても得点が取れなくて、90分にパワープレーから呂比須ワグナー選手のヘディングシュートで辛うじて引き分けた。その時はまだ岡田さんと結構話もできたので覚えていますが、日本に帰国するまではまだはっきりと正式に監督を受けるかどうかはご本人も決めてはいなかった。帰国して加茂さんに仁義を通して、直接話をしにいって「やってくれ」って言われるまでは、やっぱり決断できなかったんでしょう。そういうところはすごく昔カタギで律義なんですよね。正式に就任してからも道のりは険しかったですが、自分と仲間たちの力を借りてなんとか乗り切ってきたわけだから、そういう意味でいったらこの人も強運の持ち主ですよね。

1997年10月11日タシケントでのウズベキスタン戦の岡田武史監督とフラビオコーチ

ジャージ姿の日本代表監督

中央アジアから帰ってきて、加茂さんのところに挨拶に行って「やってくれ」って言われるまでは、あくまでも「監督代行」として、もしかしたらウズベキスタン戦とUAE戦の二試合だけで、そのあとは岡田さん自身も責任をとって潔く身を引くことも考えていたわけですから。そういうところはすごいですよね。日本でたったワンチャンスの運をこれだけがっちりと引き寄せる人も珍しいのではないでしょうか。

皆さんもよく知っていると思いますけど、1997年に急遽日本代表監督になったばかりのころ、ベンチではいつもジャージ姿だった。たぶん、岡田さんなりのポリシーだったんじゃないかな? 1998年の最初のワールドカップフランス大会の時もジャージだったけど、二回目の南アフリカ大会の時はスーツ姿だった。フランス大会最終予選の時は、本人なりに自分で自分を戒めていたんじゃないかとぼくは思うんです。ジャージでどうのこうのとマスコミにも書かれたこともあるけど、でも岡田さんは本当はその大会を加茂監督のコーチとして務めを果たすつもりだったわけじゃないですか? そういう初心を貫く気持ちを忘れないように、自分にタスクを課していたんじゃないかな。却ってそういうひたむきな岡田さんの姿をみて、いいな、かっこいいなと思っていました。身を粉にしている様を隠さないひたむきさというか、そういうのが好感だったですね。本来は自分に相応しくない役回りなのに、指揮官としてこの場に立っているという、せめてそういう格好で自分の立ち位置を表現していたんじゃないかな。岡田さんの堅物なところが出ていたと思います。

2001年7月7日コンサドーレ札幌対ジェフ市原戦の岡田武史監督

危機的状況で二度目の日本代表監督就任

しかも二度目の監督就任の時も、イビチャ・オシムさんが倒れた後に指揮官を引き継いで、そういう危機的状況を今度もチャンスに変えた。でも、あの時も南アフリカにいくまでは散々だったじゃないですか? マスコミに叩かれて、叩かれて、叩かれて……。アンチ岡田的な記事の数々……。昨年のハリルホジッチ監督から西野監督に交代したロシア大会前の状況よりもひどかったかもしれない。いや、本当に大変だったんですよ。そこまでほとんどのメディアが「監督代えろ」的な論調だったにもかかわらず、でも結局決勝トーナメント進出という結果をだしたら手のひらを返したような称賛だった。まあ誰がやっても、オシムさんのあとだったわけだから大変でしたよ。もしかしたら、オシムさんは本大会には監督に復帰できるんじゃないかって思っている人たちもいたわけだから。でも結果論だけど、監督就任が二回目だったとしても、他にあそこで代われる人材はいなかったよね? 日本人では岡田さん以外にはいなかったでしょうね。

岡田監督をサポートするブレーンたち

それにしても返す返すもすごいなと思うのは、1997年当時、岡田さん自身は監督経験はなかったわけだからね。それがいきなり日本代表監督ですから……普通は怖くてできないでしょう。でもね、岡田さんを取り巻くブレーンたちもすごかった。いい人を連れてこられたのは、加茂さんの参謀だった時も、「あの人はどうだろう」「こういう人材はどうだろう」って考えていたのは岡田さんが中心でやっていたからなんでしょう。だから割合スムーズにすっといったんだろうなって思います。スカウティングで選手ひとりひとりに対応したビデオを編集し出したのもあの頃からでした。11人いれば11人分のスカウティングビデオを用意したっていう、それはすごいことだなと思った。そういうのも、大学の研究室のスタッフとか、そういう人たちが対戦相手のプレースタイルや戦術分析のサポートをしてくれたのも大きかったです。いまはそういうのは当たり前にやっていますけど、このときは画期的なことだった。

理詰めで代表選手たちを動かす

だから、旧態依然とした体制が急激に進歩してきて、いまのような現代的なサポート体制になったりハシリですかね。そういう意味では、スカウティングチームがどれだけ大事かっていうのを知らしめた最初の指導者じゃないかな? 監督個人のセンスやひらめきや感覚だけじゃなくて、スター選手じゃなかった自分が代表選手たちを動かすためには、理詰めで全部やらないといけないし、そのためにはその裏付けが絶対的に必要であると。加茂監督に進言するにしても、自分でみて、聞いて、考え出したことを分かりやすくまとめ上げなければいけない。そういう作業をずっとやっていたわけです。そういう意味でいうと、いい監督のもとにいたんじゃないでしょうか。自分がやらなきゃいけないっていう環境も揃っていたわけですからね。

1997年10月26日国立競技場でのアラブ首長国連邦戦の岡田武史監督と小野剛コーチ

この最終予選のホームアンドアウェーでの対戦も、いろんなものがどうなるかわからない中で、現地に事前視察に行ったりとか、そういう対策もこの時が初めてだったと思うんです。行ったこともないような中央アジアの国々で、もちろん試合なんてしたこともなかったわけだし、経験もないし、どんなプレッシャーやシバリがあるかもわからない土地だったわけで、そういう環境でどうやって選手をリラックスさせて、ポテンシャルを100パーセント引き出せるか、勝ち点に恵まれない中で最後までモチベーションを落とさずにプレーさせるにはどうしたらいいかとか、いろんな試みをやったのは初めてだったわけですからね。

日本代表のことを誰よりも自分が一番考えている

岡田さんと大住良之さんとぼくで話していた時に、岡田さんの言葉で、たったひとことよく覚えているのは、「この戦い方が正しいとか間違っているかとか、この選手の起用が正しいかどうかっていうことを、自分以上に考えている人間はいない。誰よりも自分が一番考えているんだ」っていうのを聞いたときに、ああ監督を引き受けるってことはこういうことなんだな、やっぱりすごいなと思ったですね。だからメディアが書いたこと、いったことやなんかにしても、自分はそれ以上に考えているんだ、という自負があったんでしょう。それは強いな、すごいなと思いました。自分がそういうふうにとことん考え抜いているという自信と信念がある。もしそういうのがなかったら選手に「いけー!」っていえないものね。でもそこにたどり着くまでには、それぞれの立場の人たちが作ったり分析した情報が、全て自分のところにあがってくるようにしていて、最終的に決断するのは自分で、そういうことも含めて自分が一番考えているんだ、という自負があるのだと思います。ひとりで考えているんじゃなくて、みんなが持ってきてくれるいろんな情報を参考にしながら、もしかしたらAの情報とBの情報は反対かもしれないけれど、最終的な判断は自分が下さなければならないという決断力ですね。自分で決断する、それを信じ抜く強さみたいなものを持っている。逆にそれがないと去年の西野さんもそうだけど、あそこまでの勝負師にはなれないんでしょうね。

1998年5月17日キリンカップサッカー'98パラグアイ戦の岡田武史監督と呂比須ワーグナー選手

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