ピエール・リトバルスキー ‐ 西ドイツの全得点に絡む活躍

ピエール・リトバルスキー ‐ 西ドイツの全得点に絡む活躍

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「ピエール・リトバルスキー ‐ 西ドイツの全得点に絡む活躍」をお届けします。


1982年ワールドカップスペイン大会準決勝、西ドイツ対フランス戦でのピエール・リトバルスキー選手

この写真は、1982年FIFAワールドカップスペイン大会、7月8日セビリアで行なわれた準決勝、西ドイツ対フランス戦のピエール・リトバルスキー選手です。

独特のプレースタイル

この試合もワールドカップの名勝負のひとつですが、この準決勝でリトバルスキー選手は、17分にフランスから先制点をあげただけでなく、西ドイツの得点すべてに絡んでいました。

しかし両国とも錚々たるメンバーが出場していましたね。フランスはプラティニ、ティガナ、ジレス、トレゾール。西ドイツはシューマッハー、マガト、シュティーリケ、ルンメニゲ……それに当時22歳のリトバルスキー!

リトバルスキーはドイツっぽくない選手でした。ガチガチ行くタイプじゃなくて、彼独特のドリブルで力でくる相手ディフェンダーをフッとかわして突破することに長けていた選手でした。西ドイツ代表の中にあって身体も大きくないし、日本人と変わらない体格でした。

1990年ワールドカップイタリア大会で優勝した後、1993年、飯田橋のホテルで当時ジェフ市原(現在のジェフ千葉)への入団会見をしたときには、「本当にジェフに来るんだなあ」って思いましたね。

日本にやってきたリトバルスキー

彼はすぐに練習にも合流して試合にも出場して、日本の環境になれるのも早かったけど、私が一番驚いたのは、試合中フリーキックでゴールを狙うときに、壁の上を狙うと見せかけて、壁がジャンブしたときに低い弾道で足元を狙ってゴールを決めるような、そんな奇をてらったプレーが光っていました。

個人的には、ジェフが試合に勝ったあと、ゴール裏のサポーターの前ででんぐり返しをするんですけど、彼が提案して始めたといわれていて、それが今も伝統として続いているのはうれしいですね。

ジェフを退団した後は、ブランメル仙台(ベガルタ仙台)に移籍して、1999年、横浜FCのクラブ創設のときに初代監督を務めたり、その後、アビスパ福岡でも監督を務めた。2002年のワールドカップのあとに、日本代表監督っていう噂もありましたが、ワールドカップ優勝経験のある選手で、日本語が堪能で、これだけ長く日本のサッカー界に貢献された人も少ないですね。

リトバルスキーがジェフの練習に参加したころの思い出としては、全体練習後の居残り練習で、得意のフリーキックを手とり足とり個別に選手たちに教えていたのが印象に残っています。特に、当時選手だった江尻篤彦さん(ジェフ千葉コーチ)と、ちょっと意外ですけど、越後和男さん(マイナビベガルタ仙台レディース監督)のふたりはそういう練習で一番彼の世話になったんじゃないかな。おそらく選手としての素質を見抜くのもうまいから、彼らには少し教えればもっと成長すると思っていたのかもしれないですね。

それから試合の遠征のときには、そのころはまだ珍しかったパソコンを持って歩いていたのは印象的でした。何かしらデータを入れて試合の分析をしていたのかもしれない。

彼の仕草の特徴で、身体を左右にゆすって歩いたり走ったりドリブルしたりするのは、どこからみてもリトバルスキーだってわかるし愛嬌がありましたね。なんであんなに身体を揺らしてプレーしていたんだろう……。癖なんでしょうけどおもしろかったですね。

取材の思い出

カメラマンとしては、このワールドカップスペイン大会が初参戦でした。当時は現像したフィルムを持ち帰るか、途中で日本に発送して雑誌社や出版社に納品というパターンでした。フィルムも500本から1,000本くらい持って行きましたかね。だいたい大会期間中に交代で二回くらいカメラマンの入れ替えがあって、途中で帰国する人たちに現像したフィルムを託していました。

試合が終わったらすぐにフィルムを現像に出して、翌日には現像があがるんだけども、翌日もその会場にいるかどうかがわからないから、自分がピックアップできるときに現像に出すか、もしくはメインのプレスセンターで現像してもらっていました。凄い本数を現像に出すから、結構なくなってしまうフィルムもあって、フィルムの本数があわないなんて事もありました。

実は、その前の1978年アルゼンチン大会と1974年西ドイツ大会にも行きたかったんだけど、行けなかった。当時は断然野球が人気だったし、出版社でもサッカーの扱いはとても低かった。野球が好きなスタッフばかりで、サッカーが好きなスタッフは圧倒的に少なかった。

そういうのもあって、僕らのようなフリーランスでサッカーを中心に取材をするカメラマンたちは、社員たちがやりたがらないサッカーの取材を文句も言わずに一生懸命取り組んでいいものを作るってことで、スポーツ専門誌の業界に入っていきやすかったっていうのはありました。

意外と珍しいのは、この時からずっとフリーランスの資格でワールドカップのプレスパスを取得していたことでしょうか。だからサッカー専門誌にも写真を提供するし、大手の別の出版社からも別冊のワールドカップ特集号を出したりとかしていました。サッカー自体が今みたいに人気スポーツじゃなかったし、一社だけだと大会期間中の取材費用も負担しきれないので、独占じゃなくてもいいということで各社に写真を提供することもできた。

スペイン大会の時は日本から行ったカメラマンは5、6人くらいしかいなかったと思います。1986年メキシコ大会でも14、5人だったと思います。なんでそうだったかというと、新聞社がこなかったんです。新聞社もまだ自社からカメラマンは出さないで外国通信社から写真を入手していた時代でした。日本からのプレス関係者が増えたのは1990年イタリア大会からですかね。

僕らが海外で取材を始めたころは、もちろんインターネットなんてない時代でしたし、ファクスもなかったから、どうしても急いで写真を送らなきゃならないときは電送で送りました。六切サイズ(203mm×254mm)の白黒写真で1枚電送するのに30分くらいはかかりましたかね。

ゴールデン横丁の仲間たち | 今井 恭司(いまい きょうじ)

https://goldenyokocho.jp/articles/671

世界中を飛び回り最前線で日本サッカーを見つめてきたイマイさん。蔵出し写真とトークをゴル横だけにお届けします。2017年8月1日、日本サッカー協会により「第14回日本サッカー殿堂」に掲額されることが決定しました(特別選考)。

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