セルジオ越後 ‐ ブラジルからきたサッカーの伝道師

セルジオ越後 ‐ ブラジルからきたサッカーの伝道師

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「セルジオ越後 ‐ ブラジルからきたサッカーの伝道師」をお届けします。


1974年日本サッカーリーグ藤和不動産対古河電工戦のセルジオ越後選手(右)

この写真は、1974年シーズンの日本サッカーリーグ、藤和不動産対古河電工戦のセルジオ越後選手です。

藤和不動産サッカー部

セルジオ越後さんの写真はもっと古いのがあったかもしれないんだけど、この写真がいまウチのスタジオにあるやつの中では一番古い。右の赤いユニフォームが藤和不動産のセルジオ越後選手で、左の白いユニフォームは古河電工の荒井公三選手だと思うんですよね。オールドファンならご存知かもしれませんが、いまの湘南ベルマーレの前身のフジタになるさらに前の藤和不動産サッカー部の時代なんです。

当時の藤和不動産の藤田社長がオーナーのような感じでクラブを創設して、栃木の那須にリゾート地を作って、そこを一大サッカー拠点にもしようっていうんでサッカー部の強化も図った。そこに日本代表も練習したことがあるくらい立派な練習場も作って、試合は宇都宮の競技場とか運動場をホームスタジアムとして使用していました。まあでも、とにかくそこまで取材に行くのがたいへんだった。その頃おカネもなかったので国鉄の宇都宮駅からタクシーでいくか、東武線の駅が近いっていわれて、浅草駅から何回か電車に揺られていきました。

当時はこんなスタンドのない競技場で試合するのは当たり前で、みんなでこんなところでがんばっていたんです。お客さんだって十数人とか数十人でパラパラパラしかいなくて、関係者の方が多いようなこともあった。おカネを払うとピッチわきのトラックの近くまでいけるけど、おカネを払わなくてもトラックの上の土手みたいなとこから見物できた。本当にお客さんなんかいなかったからね。

セルジオさん目当てにきている人も何人かはいるにはいました。スカウティングってほどではないけど次の対戦相手のスタッフがいたりとか。でも考えようによってはあの頃はあれでいい時代だったなって思います。のどかで、おおらかだったですからね。試合が終わってドレッシングルームとかないと、選手によっていってサインしてもらえた。車できて車で帰るなんて時代じゃなかったから、選手もお客さんもみんなトコトコ電車で帰っていった。

1974年日本サッカーリーグ藤和不動産対古河電工戦の藤和不動産スターティングイレブン

サッカー王国ブラジルの元プロ選手

セルジオさんは藤和不動産に在籍していたのは3シーズン(1972年~1974年)で、当時のリーグは参加チームも少なかったから公式戦に出場したのは40試合くらいだった。でもなにがすごいってセルジオさんは日系二世だけど本当にサッカー王国ブラジルの元プロっていう肩書きで、その頃はヤンマーディーゼルが強くて、新興クラブの藤和不動産はそれほど強くはなかったんだけど、セルジオ越後選手がいるっていうだけで一目置かれるような存在感を放っていました。

ヤンマーのネルソン吉村選手やジョージ小林選手にとってみたら、ブラジルでプロ契約をした選手ということで、自分たちよりも格が上の選手でしたから、委縮したのかどうだったのか、いつもセルジオさんというか、藤和不動産には勝てないことが多かったような気がします。たぶん相性は悪かったんじゃないかな。

セルジオさんは昔からポーカーフェイスで、その頃よく話したんですが、セルジオさんがパスしても味方の選手が取れないパスを出すって。というのは、あさっての方を向いたままひょいって味方にパスを出したりして、当時はそういうプレーをする選手はいなかった。みんな「パスいくぞ!」って顔してパスを出していたからね。1970年代のサッカー選手に、そんなセルジオさんのようなプレーをする選手は他にいませんでした。そう、いまでいうノールックパスなんです。だから敵を翻弄するどころか、味方もすっかり翻弄されてしまった。そんなトリッキーなプレーをする選手はいなかったから、そういう意味でもすごい選手だった。

ネルソン吉村さんはやっぱり釜本さんっていう不世出のストライカーもチームにいたし、チームを強くするためには和をもってこういうふうにやってこうやるんだ、みたいな、わりと日本人的なメンタリティは持っていたと思うんですけど、セルジオさんも日系二世なんだけど、ぼくだけの感覚でいうと自己主張の強いブラジル人っぽかったかな。ノールックパスを繰り出して、味方とうまく連携が取れないと、そういうふうに見えてしまうじゃないですか? 取れるパスを出せばいいのに「取れないのはお前が悪い」みたいな感じでしたが、でもヤンマーのネルソンさんとかガマさんが対戦相手に来たりすると、本当に華麗なプレーでひょいひょいディフェンダーをかわすのよ! なんの気負いもなく自然にああいった技巧的なプレーをやれるっていうのが本当にすごかった。

その頃もうちょっといいカメラといいフィルムがあれば、もっといい写真が撮れたかもしれない。でもまあそれは言い訳で、カメラマンの腕が悪いってことになっちゃうんだけど、あの頃イマドキのモータードライブで連写してたら、結構おもしろかっただろうなとは思います。それがまた昔の写真とか、昔の選手にとってはいいんだよね。なんでもいろいろ語れるし、ホントのように語れるしね。

現役引退後さわやかサッカー教室を始めた頃のセルジオ越後さん

でもあとからセルジオさんに聞いた話だけど、本人からしたら電車に乗って日本中に遠征に行ったりするときには、藤和不動産の選手たちとしっかりコミュニケーションを取ったり、いろんな努力もしたっておっしゃってました。でもそれがなかなかチーム力のアップには繋がらなかったと。藤和不動産自体が急に拵えてトップリーグに上がってきたようなクラブだったから、まあ実際に難しいミッションだったかなとは思います。

藤和不動産は監督も当時は広島の東洋工業から来た日本代表監督も務めた下村幸男さんを起用してチームを作って、ブラジルからセルジオさんを獲得して彼を中心にチームを作っていった。その後いい選手たちもここから育っていって、何年か後には代表チームにはいるような選手も育っていきました。名もないっていうと怒られてしまうかもしれないけど、藤和不動産の時代からその後フジタ工業に名前が変わるんですが、それからまたどんどん強くなっていって天皇杯を取ったりとか強豪クラブになっていきましたが、そういう下地を作ったころでした。

さわやかサッカー教室で指導

セルジオさんの偉いところは、現役を引退したらそのままブラジルに帰っちゃうんじゃないかなって思ったんですけど、日本に残って永大産業のコーチを務めたあとサッカースクール──のちに各地のサッカー協会や日本コカ・コーラ株式会社が協賛したさわやかサッカー教室──を始めたことじゃないでしょうか。教えた延べ人数がそのすごい数になったはずです。Jリーグで活躍した選手も、小笠原満男さんやなんかもよく話に出しますが、セルジオさんにあの時教えてもらった、なんていう感じで、楽しく遊びながらいろんなテクニックを日本中の子供たちに教えてくれた。

「じゃあこのボールを取って」っていって、子どもがボールを手に取ったら「はい! ハンド!」とかいったり、リフティングしながらウェアの下のお腹の中にボールを入れちゃったりとか、いろんなテクニックを見せてくれた。楽しみながら覚えさせる。とにかく「サッカーボールでプレーするのは本当に楽しいんだよ」っていうことを子どもたちに伝えるために、伝道師のように日本中でサッカー教室を開催していった。その功績はすごく大きいですよね。

フットサルの普及もセルジオさんが中心になって進めていたんじゃないかな? 当時はサロンフットボールっていって普及にずいぶん尽くして、ブラジルの元代表選手たちを集めて日本武道館やなんかで大きなイベントもやった。そういうことも含めてまた違った面でのサッカーの伝道師でもあったんです。だから、もっともっと日の目を見るべきだってぼくはいつも思うんです。

セルジオ越後さん(撮影日時不明)

「僕も君たちと同じ日本人だよ」

亡くなられた清水の堀田哲爾先生がずいぶんセルジオさんをサポートしながら、こういうふうにしゃべった方がいいよとか、こういうふうに指導した方がいいよとかアドバイスしてくれたらしい。ぼくが堀田先生のいったことの中でひとつ記憶しているのは、ボールの扱いやなんかを教えている中で、セルジオさんはブラジル出身だからできるんだっていうふうにみんな思うんだってね。

だから、いつも言葉をひとつだけ「ぼくも君たちと同じ日本人だよ」ってことをサッカー教室の最後にいいなさいってアドバイスしたらしいです。最初じゃなくて最後にいいなさいって堀田さんがいって、それから最後にいうようにしたらしい。「僕も君たちと同じ日本人だよ」ってね。でも実際の国籍がブラジルか日本かどうかわからないんだけど……でもやっぱりそういうふうにいうと、子どもたちは「そうか!」って思うらしい。サッカー教室を始めた頃はそのフレーズをどこで使うべきかっていうことを堀田さんがやっぱり助言してくれたんだよねって。

いやでも、セルジオさんのゲームを見る目とかそういうのはすごいと思います。彼の話を聞いたりなんかしてもね。もっともっと評価されてもいいのになって思います。きっと煙たがる人が多いんだよね……もうちょっと中央の仕事を任させてもいいような気もするんだけど、ロベルト・ファルカン監督がきたときに監督通訳みたいな感じで代表スタッフに入ってやったんだけど、ファルカンが長く続かなかった。あれがもうちょっと長く続いていたらどうだったか。当時若い選手を積極的に登用したりしながら、結構さあこれからっていう時に梯子を外されてしまった。そのへんからちょっと辛口に拍車がかかってしまったのかな。

「辛口」という評価について

セルジオさんは本当に心から日本のサッカーが大好きで、普及と強化には積極的に取り組もうとしていた。もちろんサッカー解説もプロ化が達成される前からされていて、辛口の批評には定評があります。辛口なのは別に悪くはないとぼくは思うんだけど、それを良しとしない人たちもサッカー界には結構いたりして、でもご本人はそういうつもりでいってるんじゃなくて、いい意味での叱咤激励をするっていう意味での辛口なんだろうけど、辛口辛口っていう言葉がスポーツ紙やサッカー専門誌やテレビ番組でひとり歩きを始めてしまって、その裏にあるあたたかい意味での「辛口」という評価がひとつ抜けてしまっているような気がしてなりません。

セルジオさんの日本サッカー評をいいっていう人とそうでないっていう人にはっきり分かれてしまっているのが、ちょっと残念だなって思うんですよね。セルジオさんがいたからサッカーが好きになった子たちはものすごくたくさんいますし、いまも新聞雑誌でコラムを書いていらっしゃいますけど、どうも間に入っている方たちがそういう書き方にしようしようっていうのが見え見えなところもあるわけで……もちろん辛口なんですけど、ご本人が普通にぼくらと話すときはそんな尖った意図はないわけです。

セルジオ越後さん(撮影日時不明)

会うといつも「こんちは」っていいながら、ちゃんとコミュニケーションしてくれる人だし、年齢的にはぼくより全然年上だと思っていたんだけど、本当のこというとぼくがたしかちょっとだけ下なんだけど……でも早生まれだから一応同級生なんだ。それは困ったな(笑) でももちろんセルジオさんとは古い仲ではあります。日本語を習得したのは割と遅くて、だからこの写真の頃はまだあまり日本語は喋らなかった。でもアタマがいいからわかっていても、わからない振りをしていたんじゃないかな、面倒だから。そのへんはブラジル流のマリーシアっていうか、たぶん日系二世だからご家庭の中では日本語で話していたんだと思うけど……でも今も彼のセールスポイントというか、ちょっとイントネーションが違う日本語、そういう解説が売りでいい感じだから、そういうところは残した方がいいってもしかしたらいわれているんじゃないかな。テレビでもインタビューでも自然にふるまえていたし、なんの支障もなかったと思います。日本語ですらすら原稿が書けるのかどうかはわかりませんけど……。でもJリーグが始まった当初もどこでも取材にきていました。

長年にわたってのサッカーの指導と普及活動が評価されていろんな表彰を受けています(2006年文部科学省生涯スポーツ功労者表彰受賞、2013年外務大臣表彰受賞、2017年旭日双光章)。もう半世紀くらいにわたって草の根的な指導をしているし、もうセルジオさんくらいになると表彰で彼の評価が変るものでもない。サッカーが大好きだった少年・少女だったらもう誰でもセルジオさんのことを知っている、まさにそのことが彼の勲章のようなものなんです。

ゴールデン横丁の仲間たち | 今井 恭司(いまい きょうじ)

https://goldenyokocho.jp/articles/671

世界中を飛び回り最前線で日本サッカーを見つめてきたイマイさん。蔵出し写真とトークをゴル横だけにお届けします。2017年8月1日、日本サッカー協会により「第14回日本サッカー殿堂」に掲額されることが決定しました(特別選考)。

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