松本育夫 ‐ 不屈のサッカー指導者

松本育夫 ‐ 不屈のサッカー指導者

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「松本育夫 ‐ 不屈のサッカー指導者」をお届けします。


1979年8月、国立競技場で行われたFIFAワールドユース選手権大会での松本育夫監督

この写真は1979年8月、国立霞ヶ丘競技場で行われたFIFAワールドユース選手権大会で、U-20日本代表を率いる松本育夫監督です。

1979年FIFAワールドユース選手権大会

日本で開催された第2回FIFAワールドユース選手権大会(FIFA World Youth Championship Japan 1979)ですが、FIFA主催の国際大会を日本で開催するのはこの大会が初めてでした。大会の誘致が決まってから、1968年メキシコオリンピックでの銅メダル獲得以降、国際大会では全く実績のなかった日本サッカー界は、どうやったらこの大会を成功に導けるか、自国開催で日本ユース代表が世界の強豪国を相手に──優勝したアルゼンチンにはディエゴ・マラドーナやJリーグ初代得点王のラモン・ディアスがいた──グループリーグを勝ち抜けるか、というか、なんとか1勝をあげて開催国としての面目を保つことができるか、とにかくいろんなことをみんなで考えて、大会までの三年くらいの間に本格的な強化合宿に取り組み、延べ人数で200人くらいだったかな、日本国中から高校生や大学生をスカウトしてかき集めて、入れ替わり立ち替わり数多くの選手たちと必死にトレーニングに取り組んできました。まさにその陣頭指揮をとったのが、松本育夫監督でした。

前例のない強化合宿

それこそ毎月のように徳島の鳴門陸上競技場(現大塚スポーツパークポカリスエットスタジアム)や千葉の東大検見川グラウンド(東京大学検見川総合運動場)に有望な選手たちを集めて、当時としては破格の強化費をつぎ込んだのだろうと思います。20歳以下のユース年代ですから、二年、三年と跨いで強化をしていると、当然大学受験がある子もいたりして、ひとり去り、ふたり去り……とメンバーが次々に変わっていったりとか、ずっとキャプテンを務めていた四日市中央工の樋口のお兄さん(樋口士郎選手。実弟は樋口靖洋FC琉球監督)が最後の最後でメンバーから外された時は、「なんでだよーなんでだよー」ってみんなが大泣きした、というエピソードがあったり、そんな学園ドラマみたいなシーンを本大会までの長い期間ずっとみてきました。

朝練習して朝ご飯食べて、午前練習して昼ご飯食べて、午後練して夕ご飯食べて、夜は体育館で練習することもあったけど、日々のトレーニングレポートを選手たちに書かせたりもした。そんな四部練習や夜の座学での講習を毎日当たり前のように繰り返していく中で、自分のプレーを客観的に分析して、どういうふうに練習や試合に取り組んだらいいか、理解力をグングン高める子がいる一方で、夜の勉強時間になるとてんでダメなんだけど、昼間のピッチでは王様みたいに天才的なテクニックで魅了する子もいた。1970年代の終わりに、二年から三年にわたって選手もコーチもみんなが試行錯誤を繰り返しながら真剣にサッカーに取り組んで、そんな前例のない長期トレーニングの影響でいい選手に成長した子も、いい指導者になった子もいる。

その頃、そんなものすごい人数のユース選手たちを集中的に強化したことなんて経験がなかったから、全国の高校の先生たちもどういうふうに教えているんだろうってみんな興味津々で合宿現場まで見に来たりして、学校に帰ってから同じような練習に取り組んだりもした。当時島原商にいた小嶺忠敏先生(長崎県サッカー協会会長、長崎総合科学大学特任教授)なんかもノートをしっかり付けたりして、結構いろんな人たちがいろんな形でかかわっていたんです。だから、今でいう育成のちょっと上のレベルの、エリートプログラムのような強化方法に取り組んだハシリだった。

1979年日本ユース代表から育ったメンバーたち

1979年FIFAワールドユース選手権大会でのU-20サッカー日本代表メンバー

松本育夫さんは東洋工業(マツダ)の社員という形で日本サッカー協会に派遣されていて、西ドイツで指導者ライセンスを取得してその後東海大監督から神奈川県サッカー協会会長になった宇野勝さんが協会職員兼ユース代表コーチとして二人三脚でずっとやってきた。学生のマネージャーが何人かいたけど、基本的には全て松本さんと宇野さん中心で切り盛りしなければいけない結構大変な時代だったんです。このワールドユース選手権は念願の1勝をあげることができず2分1敗でグループリーグで敗退してしまったけど、いま指導者になったのは、柳下正明ツエーゲン金沢監督、風間八宏名古屋グランパス監督、宮内聡成立高校総監督、それに水沼貴史さんとか鈴木淳さんとか柱谷幸一さんとか名取篤さんとか、最終的にメンバーに入った中からJリーグの指揮官になった選手もいました。

松本育夫さんはとにかくアツい人で、怒るときは本気で怒るし、相当スパルタだったけど手を出すとかそういうことではなくて、キチンと理にかなった指導法だったから、みんな文句も言わずに従うし、当時その年代の人たちにとってみたらこんなにいい指導者はたぶんいなかったんじゃないか、というくらいハマっていました。「炭酸飲料は飲むな!」って話もありましたけど、指導法以外にもいろんなことを勉強していましたし、こんなに長期にわたってユース年代の指導をした例もありませんでした。

ピッチに送りだしたら自分たちの判断でプレーさせるべき

国内合宿だけじゃなくヨーロッパ遠征にも取り組んで、旧ユーゴスラビアのリエカで由緒あるユース大会に参加した時、僕もあとから現地に入って二週間くらい一緒にいてずいぶん世話になりました。当時の日本の監督コーチって──もしかしたら今もまだいるかもしれませんが──普通に「右にだせ!」とか「左サイド走れ!」とかベンチから大声で選手に指示してたじゃないですか? でも「ヨーロッパのブラジル」なんて言われていた旧ユーゴスラビアのコーチたちからは「この年代の選手たちには、ピッチに送りだしたら自分たちの判断でプレーさせるべきだね」って指摘されてしまった。「そうしないと自分で考える力は養えないよ」ってね。ユース年代の選手や指導者がヨーロッパ遠征をするのはめずらしい時代でしたから、若い選手たちに自主的に考えてプレーさせるっていう指導法はある意味斬新な考え方だった。そういったことを指導者たちも学び、学んだことをしっかり消化して選手たちに伝えた。そういう育夫さんたちが1970年代から1980年代に取り組んだことに加えて、その頃そういう姿勢を教わった選手たちも指導者の立場になってからはどんどん新しいことを勉強して、今まで知らなかったアイデアや発想も柔軟に取り入れて、今のユース年代の指導の基礎を築いたようなところもあるんです。

メキシコオリンピックではサブ的な選手だった

デットマール・クラマーさんの指導を受けて、長沼健監督率いる日本代表として出場したメキシコオリンピックでは、松本育夫さんは絶対的なレギュラー選手ではなくて、どちらかといえばサブ的な選手だった。フル出場は初戦のナイジェリア戦とメキシコとの三位決定戦の2試合だけ。国際Aマッチ出場は11試合、通算で59試合。だからこの人のすごいところは、試合に送り出している子たちは問題ないけど、試合に出れないベンチにいる子たちをしっかりケアできるということ。自らがそういう経験をしていたからこそ、そういう部分にとても気を使える指導者なんです。技術論だけでなく、そういうところでもチームの調和とか、そういうバランスを築ける超一流の指導者でもあると思う。

川崎→地球環境高校→鳥栖→栃木

川崎フロンターレの監督だった時は今みたいに強豪クラブだったわけではなかったし、通信制の地球環境高校で全国高校サッカー選手権に出場させて世の中をびっくりさせたし、存続の危機だったサガン鳥栖をあそこまで伸ばしたのもこの人がいってからだし、栃木SCは宇都宮出身だった縁でアドバイザーをやって、松田浩監督退任で監督もやりましたが、社長もやってくれって頼まれたけどそれは断ったらしい。いまは日本サッカー後援会の理事長を務めていらっしゃる。だから大きな試合には必ずいらっしゃるようです。この日本サッカー後援会は昔本当にサッカーでお客さんが入らなくておカネもない時代に、なんとか日本のサッカー界をサポートしようと立ち上げた団体で、いまもある程度まとまったお金を寄付している。恩恵を受けている団体にはJFLもあって、年一回JFL所属クラブの若い選手たちを選抜して海外遠征している費用なんかにも利用されているようです。だからここからのサポートは非常に重要だし大きいんです。そういう団体の裏方さんをやりながら、草の根的なポジションから組織を支えていらっしゃいます。

つま恋ガス爆発事故を乗り越えて

1983年11月のつま恋ガス爆発事故で瀕死の重傷を負ったとき、大爆発で瓦礫となった建物の中で火災が迫るところを匍匐前進で必死に外まで這い出てなんとか一命をとりとめたけど、体中ガラスの破片だらけになってしまった。当時サッカー協会のドクターだった先生がすぐに見舞いに行って、東京の病院まで運んでそこでガラスの破片を取り出す大手術と皮膚の移植手術もした。とにかく大変な手術だったんだけど、でも本当に不屈の精神力というか、事故を乗り越えて今も命があるのはサッカーで培ったもののおかげだってご本人はよく語っておられました。

2018年9月、サッカー殿堂入り表彰式での釜本邦茂さん、加藤久さん、松本育夫さん

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