【旧車】Be-1│日産 バブル経済の申し子、日産のパイクカー第一弾

【旧車】Be-1│日産 バブル経済の申し子、日産のパイクカー第一弾


■既成価値へのアンチテーゼ!性能ではなくファッション性という新たな価値を創出したパイクカー
・モデル名 :Nissan Be-1
・世代/型式:BK10型
・メーカー名:日産自動車
・搭載エンジン:987cc直列4気筒OHC
・最高出力 :52ps/6000rpm
・最大トルク:7.6kg.m/3600rpm
・販売時期 :1987年〜1988年
・生産台数 :限定1万台

ファッション・テキスタイル業界からコンセプターに坂井直樹氏を招き、クルマをファッションアイテムの一部、つまりファッション雑貨のブランドとして売り出した日産パイクカーの先駆け。

自動車メーカーにとって、好きなものが作れたイイ時代

世界の経済はさまざまな要素で動く。1980年代、世界情勢の影響を受けて日本経済は翻弄される。1980年代前半に日本や欧州などから自動車を含めた対米製品輸出が急伸し、アメリカは莫大な貿易赤字が発生、日本や西ドイツなどが対米貿易で大幅な黒字となる。
これを是正するために、1985年9月のG5蔵相・中央銀行総裁会議で決議された「プラザ合意」によってドル安に誘導する国際的な協調体勢がとられた。

結果、日本は急激な円高に見舞われる。「プラザ合意」発表前日の対米ドル235円は翌日に20円も下落し、1年後には対米ドル約150円にまでになる。これが自動車を中心とした日本の輸出企業に大打撃を与える。バブル前夜に日本経済を襲った「円高不況」である。

そこで日銀は金融緩和に突き進む。1986年、大幅な公定歩合引き下げに動く。それにさまざまな要素が絡んで国内では貨幣錯覚が起き、不動産や株式に対する投機が進んだ。プラザ合意から2年足らずの87年秋に、日本の地価は倍以上に高騰し、円高不況時に1万2000円ほどだった日経平均株価は、2年足らずの87年に2万6,000円を超えた。株価はブラックマンデーを乗り越えて90年に最高株価3万8,957.44円を記録する。これが世に言う「バブル景気」である。

メカに特別感が無いクルマだが、“お洒落な雑貨感覚”が受けた

イメージカラーのパンプキンイエローに塗られたキャンバストップ仕様のBe-1

こんな混沌とも言える時代に登場したエポックメイクなクルマが、1985年11月の東京モーターショーに参考出品された日産「Be-1」だ。そして、86年1月に限定で1万台生産することを正式に決定。ショーモデルを忠実に再現したそのクルマは、2カ月ほどで受注は埋まった。そして、1987年1月に納車が始まり「Be-1」は、ようやく街を走り始めた。まさに、プラザ合意後の円高不況下に登場して、バブル景気只中に走り出した小さな自動車である。

ふり返ると、そこまでの日本では、1978年に渋谷東急ハンズがオープン。1979年にSONYウォークマンが登場。1981年に同じく渋谷にパルコ・パートⅢ、六本木にAXISがオープンしていた。いずれも若いファッション感覚と遊び心に溢れた雑貨感覚を大切にした商材・商業施設だったといえる。それが80年代、渋谷西武百貨店にSEED館、LOFT館が加わり、さらにお洒落な雑貨を求める消費傾向が顕著化した。それがクルマにも及んだといったら滑稽だろうか。

Be-1の魅力は、その内外装のデザインが醸し出す雰囲気にあり、クルマをファッションアイテムの一部、つまりファッション雑貨のブランドとして訴求できたのだ。Be-1は、1982年に登場した日産の小型車K10型初代「マーチ」のシャシーを使ったクルマで、メカニズムの側面では、まったく訴求すべき点は無い。まさに中身は初代日産マーチそのものだ。

しかし、デザインが秀逸だった。その時代の日産車といえば、1981年に登場したR30型「スカイライン」や82年デビューの大型クーペであるPF30型初代「レパード」などのように、直線定規たけで線を引いたかのような、カクカクなデザインのクルマが主流だった。
そのなかでBe-1は、ファッション・テキスタイル業界からコンセプターに坂井直樹氏を招き、出来上がったのはレトロともいえる丸くて小さなデザインが最大の特徴のパイクカーだ。ネーミングは、スタディモデル案、A案・B-1案・B-2案・B-3案の4つのモデルのなかの「B案のNo.1」から採った。

秀逸なデザイン構築を支えた新素材

このBe-1は、それまでの自動車が追及してきた絶対的な動力性能やパッケージングの実用性などの既成目標は、そこそこに達成。別のベクトル、既成価値へのアンチテーゼともいえる方向性を指し示すことで独自の価値を見せたクルマだった。

前述で、Be-1にメカニズム面で語るべき点が無いと記した。それはそれで間違いでは無いのだが、ボディ構造材には新素材が多用された。

Be-1のバンパーとナンバープレートが取り付けられているフロント部分とリア・エプロン部分、フロントフェンダーの材質には、世界で初めて米国GE社と共同開発したフレックスパネル(Flex Panel)が用いられた。採用した理由は、フロント、リアが直立したデザインのため、小石などを跳ね上げ、傷付き、錆が発生しやすくなると判断したためである。フレックスパネルの材料組成は、耐衝撃性の高い変性PPO(ポリフェニレンオキサイド)と耐熱性の高いPA(ポリアミド、通称ナイロン)などからなり、両者の優れた特性をあわせ持つ熱可塑性樹脂であり、成形自由度や塗装品質が高いなど特徴を持っていた。

1万台だけ生産する独特な販売システム

そして、それを月産400台で最終1万台生産するというシステムも独自のものだった。

Be-1の生産は日産社内ではなく、高田工業戸塚工場で行なわれた。生産規模は前述のとおり月産400台。曲面を多用したスタイルを再現するには、熟練した職人の“手”が欠かせない。日産はそんな職人たちを抱えた高田工業をBe-1の生産基地としたのだ。

高田工業は単なる日産の組立工場ではなかった。日産との綿密な協力関係を持った高田の技術陣が車体や艤装部品の設計をも担当する。Be-1の生産は、日本の自動車業界におけるサプライヤーの底力が試される舞台でもあった。

高田工業戸塚工場には、高田工業横浜金沢工場から鋼板プレス部品が、日産鶴見・村山の両工場からフロアパネルやエンジン、追浜工場から樹脂部品が運び込まれ、熟練の職人たちがほぼ手作業で1台ずつBe-1をつくり上げた。高田工業による生産は、後に月産600台にまで早くなった。そして、予定どおり1987年5月、1万台目をラインオフし、その生産を終える。

ひととおりの諸元にも触れると…そして青山の「Be-1ショップ」

蛇足かも知れないが、Be-1の主要諸元にも簡単に触れておく。ボディは2ドア2ボックスでハッチバック車ではなかった。ボディサイズはベースとなった初代マーチとほぼ同じ、全長×全幅×全高3635×1580×1395mm、ホイールベース2300mm。
搭載エンジンは987cc直列4気筒OHCで、最高出力52ps/6000rom、最大トルク7.6kg.m/3600rpm。トランスミッションは5速マニュアルと3速オートマティックを用意。
車両を支えるサスペンションは前マクファーソン・ストラット式、後4リンクコイル式固定軸だ。後にキャンパストップを採用したモデルも用意され、車重は670〜710kgとなっていた。ボディカラーはパンプキンイエローほか計4色。東京地区標準価格は129.3万円〜144.8万円だった。

日産はBe-1が街を走り始めるのとほぼ同時に、アパレル製品や雑貨をセレクトしたコンセプトショップ「Be-1 SHOP」を開設した。場所は地下鉄表参道駅と外苑前駅の中間、国道246「青山通り」に面した、赤坂に向かって右手の一角だった。店内にはBe-1のイラストやロゴが入ったオリジナル雑貨のほか、Tシャツやトレーナーなどのコットンアパレルやカジュアルウェアなど、Be-1ショップのテーマ「快適な空間を志向するナチュラルな心地よさ」を追及した空間だった。そこは小規模ながらファッションショーなど数々のイベントを開催する多目的スペースでもあった。

2匹目のドジョウ「PAO」と3匹目の「FIGARO」

日産はBe-1の成功を受けて「2匹目のドジョウ」を狙う。1987年の第27回東京モーターショーに出品したパイクカー第2弾「PAO」を89年1月に市販化する。

先例Be-1と同様に限定車という受注方式を採用したが、台数を限定して混乱を招いたBe-1の経験から、予約期間だけを設ける方式が採られた。つまり予約期間に受注したクルマを生産するという方式だ。生産はBe-1と同じ高田工業が担った。

コンセプトはレトロ路線をさらに追及。ドアのアウターヒンジやリブの入ったドアパネル、跳ね上げ式リアウインドウなどで懐古的な雰囲気を演出した。

クルマとしての機能面での内容はBe-1とほとんど同じで、89年1月に2度目のマイナーチェンジを受けたマーチのフロア&ランニングギアが用いられた。トランスミッションもBe-1とまったく同じだが、異なるのはステアリングがパワーアシスト付きになったこと。価格は5MT車が138.5万円、3AT車が144.0万円で、キャンバストップが10万円アップの価格設定とされた。

「メカニズムに何の新しさも無く、アウタースキンだけを換えた、レトロ路線だけのクルマ」という酷評も多かったが、空前のバブル景気に乗って、たった3カ月の受注で4万2000台を売る大ヒットとなった。
1991年2月には、日産から「3匹目のドジョウ」を狙ったパイクカー第3弾「FIGARO」が登場する。

Be-1、PAOに次ぐ初代マーチ・ベースのパイクカー第3弾は、1989年の東京モーターショーで参考出品された「FIGARO」(フィガロ)だ。レトロ調にデザインされた小型4座オープンであり手動で開閉するソフトトップや、本革シートを備えていた。型式はFK10型。乗車定員は4名。K10型初代マーチをベースとしたパイクカーシリーズのなかでは唯一、ターボエンジンを搭載したモデルだった。搭載した987cc直列4気筒MA10ET型エンジンの最高出力は76ps/6000rpm、最大トルクは10.8kg.m/4400rpmだった。トランスミッションは3速オートマティックのみ。製造は前2作と同じ高田工業だった。

白い本革シートや白いインテリアの特別感漂うフィガロは、1991年2月14日に限定2万台で発売され、同年8月末までに3回に分けて抽選するという販売方式がとられた。しかも、日産の目論見があたり、またしてもヒット作となる。

日産が世に送りだしたパイクカー3台は、性能云々ではなく、ある意味ファッション性のアピールが奏功して売れた。1994年にはサニーをベースにSUVなどという単語が無かった時代にSUVのようなパイクカー「ラシーン」を発売、それなりに評価が高かった。が、しかし、日産はパイクカーの少量生産では出来た新しい試み・実験をその後の商品戦略に活かせなかった。その後の、90年代後半には経営難に陥って仏ルノーの支援を仰ぐ。そしてカルロス・ゴーン独裁体制が登場する。

関連する投稿


【クイズ・旧車千本ノック】220本目

【クイズ・旧車千本ノック】220本目

実車のディテールに迫る。三択クイズにチャレンジ!


レジェンド | ホンダ - イギリスに学んで作られたホンダ初の「高級車」【旧車】

レジェンド | ホンダ - イギリスに学んで作られたホンダ初の「高級車」【旧車】

ホンダ初の高級車、レジェンドです。英国の高級車のありかたを参考に細部にわたって作りこみました。FRが主流の高級車市場にあって、販売面では健闘しました。


【クイズ・旧車千本ノック】219本目

【クイズ・旧車千本ノック】219本目

実車のディテールに迫る。三択クイズにチャレンジ!


スカイライン2000GT-R | 日産 - 旧車界でトップクラスの人気を誇る名車中の名車【旧車】

スカイライン2000GT-R | 日産 - 旧車界でトップクラスの人気を誇る名車中の名車【旧車】

日産・スカイラインの3代目、ハコスカです。最強バージョンのGT-Rはプリンス系列の技術陣によって開発された直列6気筒4バルブDOHC2,000ccS20型エンジンを搭載しています。


全国カーイベント情報

全国カーイベント情報

全国各地で開催される旧車イベントやクラシックカーフェスティバルなど、クルマ関連の各種イベントをご紹介します。


最新の投稿


昭和レトロ食堂 │ ロボットに囲まれて酒を呑む ROBOT KICHI

昭和レトロ食堂 │ ロボットに囲まれて酒を呑む ROBOT KICHI

昭和の残滓を感じさせる大衆酒場やスナックは、令和の時代になってもまだまだあるもの。そんな昭和レトロなお店を訪問してみた。今回訪れたのは養老乃瀧が運営する「ROBOT KICHI」。およそ昭和感のない店名ではあるが、果たして?


アントニオ猪木が天龍源一郎を眠らせた夜

アントニオ猪木が天龍源一郎を眠らせた夜

スポーツフォトグラファー原悦生さんが蔵出しの写真と切れ味鋭いコラムでレスラーたちの汗と涙と熱狂の記憶を呼び覚まします。今回は「アントニオ猪木が天龍源一郎を眠らせた夜」をお届けします。


【クイズ・旧車千本ノック】220本目

【クイズ・旧車千本ノック】220本目

実車のディテールに迫る。三択クイズにチャレンジ!


スウィング・アウト・シスター/Swing Out Sister - You On My Mind - 1989年

スウィング・アウト・シスター/Swing Out Sister - You On My Mind - 1989年

アンディ・コーネル(key)と、コリーン・ドリュリー(vo)のデュオ。スウィング・アウト・シスターは1984年にイギリスで結成され、当初はトリオでしたが、この「You On My Mind」を含む2枚目のアルバム「Kaleidoscope World」制作中にオリジナル・メンバーのドラマーが脱退し、現在の体制に。


平木隆三 ‐ メキシコ五輪銅メダルの名参謀はやさしい鬼軍曹

平木隆三 ‐ メキシコ五輪銅メダルの名参謀はやさしい鬼軍曹

ファインダー越しにサッカー界を見つめてきたプロカメラマン今井恭司さんの蔵出し写真と暖かいコラム。今回は「平木隆三 ‐ メキシコ五輪銅メダルの名参謀はやさしい鬼軍曹」をお届けします。